映像と俳句2 Ashes and snow
今年の三月から六月まで、Gregory Colbertの「Ashes and snow」展という大規模な作品展がお台場で開催された。152個のコンテナを積んで作った仮設美術館、まっすぐに並べられた60点以上の大型写真、終わることなく上映され続ける1本の長編映像と2本の短編映像、そして365通の手紙が創る”Ashes and snow”の世界。全てが小さな単位を積み重ねて創られたような作品展であった。この独特な雰囲気の作品展で上映されていた二本の短編映像が「俳句」と題されていたことをご存知だろうか?
この2本の映像「俳句」は、人間が自然と交流する一瞬の静と動を捉えた映像を断片的に繋ぎ合わせたものであった。映像中に登場人物の会話は一切ない。俳句はよく写真に例えられるが、この無駄を全て省いた映像の一つ一つは連続した写真のようであった。
その題が示すように、このショートフィルムが俳句を意識して撮られたものであることは明らかだ。しかしこの作品の作者、カナダ出身の芸術家Gregory Colbertの思い描いた俳句は高橋世織が小津映画に見た俳句感とはまた別のものだろう。映像の題は「俳句」と書かれていたが、正しくは「haiku」だ。厳密に切り取られた五七五定型の韻律ではなく、最小限のことばで構成された自由律短詩の世界。情報という力を失った季語の代わりに、簡潔に示されたものごとの本質。Colbertの描いた世界は簡潔で美しく神秘的であったが、私の思う俳句のイメージとは少し違った。それはColbertの持つ俳句のイメージから作られた世界なのだから、当然のことだろう。問題はそのイメージを受け取る側にある。
俳句はダサい。俳句なんて知らない。そういう風潮にあふれる日本で、Colbertの作品展を観に来た膨大な数の観客達は何を思っただろうか。もし私が俳句を始める前にこの作品展に出会っていたら、Colbertの描いた世界こそが本当の俳句に違いない。そう思ったかもしれない。
俳句の持つストイックなイメージは、映像や写真、その他の分野において、俳句をやっている人の思っている以上に影響を与えることが出来るのではないかと思う。製作する側において、俳句はこうしたもののライバルに成りえるといえるだろう。ところが製作されたものを受け入れる側において、その関係は平等ではない。既存の俳句のイメージが極めて希薄であるため、作品に含まれる俳句のイメージを俳句そのものとして受け取ってしまう恐れがあるのだ。かっこよくってわかりやすいものを大衆は支持する。そのとき始めて俳句は「クる」のかもしれない。
最後に再びサバービア俳句について。9月23日の対談「サバービア俳句について2」の中で次のような会話が目に留まった。
信治: ぼくは、俳句の「中」の人が、もっと「クる」ことを、おそれたらいいとは思う。同時代にふつうに生きてる人に読まれて、俳句っておもしろいじゃない、とか、言われることを、おそれるべきですよ。
猿丸: 俳句の中の人がみてるのは、俳句の「中」だけでしょう。
俳句が「キた」とき、その俳句のイメージは恐らく従来のものとずいぶんと変わっているだろう。俳人が俳人しか相手にしない限り、俳句は私たちの手を離れていかない。もしかしたら「俳句がライバルになりえない」という考えは今の俳句を愛する人の理想なのかもしれない。
参考URL
1. 「Ashes and snow」HP

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投稿: みんな の プロフィール | 2007年11月21日 (水) 13時19分